LOGINセレスティナは、広間の隅で自分の手を握っていた。
茶会は続いている。 花は美しく、菓子は甘く、夫人たちは優雅に笑っている。 けれど、先ほどまでの華やかな空気はもう戻らなかった。 リディアが放った一言。 ――皆様の善意は、なぜ帳簿の中で半分に減るのでしょう。 それは、広間の中央に落ちた小さな氷のようだった。 誰かが踏めば割れる。 けれど、誰も踏めない。 だから皆、その周りを美しい靴で避けながら歩いている。「本当に、リディア様は思い切ったことをなさるわね」「ええ。あれでは、まるでこの茶会が悪事の場みたい」「でも、監査局が入っている以上、何か見つかっているのでしょう?」「しっ。聞こえますわ」 囁き声が、あちこちで揺れていた。 セレス第82話 悪女監査官の婚礼 婚礼の日になっても、リディアの家族は家族らしい顔をすることができなかった。 それでよかった。 無理に笑って、仲のよい家族を演じられるよりは、ずっとよかった。 王宮礼拝堂の控え室で、リディアは鏡の前に立っていた。 白銀の婚礼衣装。 裾には細かな草花と雨粒の刺繍が施されている。その中に紛れるように、王国監査局の章を模した銀糸の意匠が縫い込まれていた。 控えめに。 けれど、探さなくても見つけられる場所に。 本物の監査官章は、胸元の布の内側に留めてある。 肌には触れない。 重くもない。 ただ、そこにある。「お姉様」 背後から呼ばれ、リディアは鏡越しにセレスティナを見た。 妹は淡い青色の礼装を着ていた。 目元が赤い。 泣いたのだろう。 しかし、今日は顔を伏せていなかった。「何ですか」「……きれい」「ありがとうございます」「本当に、きれい」「二度言わなくても聞こえています」「だって、ちゃんと言わないと」 セレスティナは唇を震わせた。「途中で泣いたら、言えなくなるから」「既に泣いているように見えます」「まだです。これは、その、目に入っただけ」「何が?」「いろいろ」「便利なものが入りましたね」 セレスティナは笑おうとして、失敗した。 笑顔と泣き顔の中間になった。 以前なら、リディアは妹が泣き始めた時点で近寄った
第81話 婚礼前夜、あとで考える箱 結婚の前日には、過去を片づけておくべきだと、リディアは思っていた。 誰かに教えられたわけではない。 婚礼作法の本にも、そのような項目はない。 花嫁は入浴を済ませること。 髪を整えること。 衣装と宝飾品を確認すること。 当日の起床時刻を守ること。 誓約文を読み直すこと。 家族への挨拶を済ませること。 どの本にも、未整理の感情を分類しなさいとは書かれていなかった。 それでもリディアは、王宮の客室に用意された小さな机の前で、木箱を開いていた。 箱の蓋には、セオの字で書かれた札が貼られている。『あとで考える箱』 ひどく軽い名前だった。 中身は、まったく軽くない。 父から届いた手紙。 母が救済基金の実務研修について書いた短い報告。 セレスティナから届いた、書き直しだらけの手紙。 ヴェルクレア家の執事長アルマンから送られた近況。 そして、返事を書こうとして書けなかった便箋が三枚。 リディアは最初に、父の手紙を取り出した。『あなたは二十一歳。誕生日は冬至祭の五日前。』 もう何度も読んだ。 それでも読むたび、胸の中の違う場所が痛んだ。 初めて読んだ時は、遅すぎると思った。 二度目は、覚えたのだと思った。 三度目は、なぜ今なのだろうと思った。 四度目は、少し嬉しい自分に腹が立った。 五度目から先は、数えていない。「……分類不能」 リディアは呟いた。 監
第80話 旧貴族派の最後の嫌味 人間は、負けたからといって黙るとは限らない。 むしろ、もう勝てないと分かった人間ほど、最後に嫌味くらいは言って帰ろうとする。 リディアは、そのことを王宮北翼の祝宴広間で学んだ。「まあ。監査官章を身につけた花嫁など、聞いたことがありませんわ」 声は小さかった。 しかし、聞かせるための小声だった。 それは、小声の意味をかなり間違えている。 リディアは手にしていた果実水の杯を置いた。 婚礼まで、あと四日。 本日の祝宴は、ギルベルトとリディアの婚姻を前に、王家主催で開かれた小規模な晩餐会だった。 小規模。 王宮基準である。 出席者は百人を少し超えていた。 リディアに言わせれば、百人を超えた時点で十分に大規模なのだが、王宮では三百人以下は「身内だけのささやかな集まり」に分類されるらしい。 人間の感覚とは、環境で壊れる。「ベルダ侯爵夫人」 リディアは声の主へ顔を向けた。 六十歳を越える老婦人だ。 扇子を持ち、姿勢は美しい。 かつて白羽の会へ何度か名義を貸していたが、直接的な不正への関与は認められなかった。 ただし。 リディアを嫌っている。 これは帳簿を調べなくても分かる。「何か?」 尋ねると、ベルダ侯爵夫人は微笑んだ。「いえ。ただ、時代は変わったものだと思いまして」「そうですね」「以前でしたら、花嫁は夫の家に入る日に、余計な肩書きをいったん置いたものです」 周囲にいた貴婦人たちが、僅かに黙る。 離れる者はいない。
第79話 若い令嬢たちの小さな反乱 リディア・ヴェルクレアは、その日、自分が相談窓口になった覚えはなかった。 本当にない。 王国監査官として任命された。 雨音基金の初年度監査担当になった。 ギルベルト・レイヴァン王弟宰相と婚約した。 婚姻後も職務を継続することを契約書へ明記した。 そこまでは事実だ。 だが。「……なぜ、七人もいるのですか」 王宮東棟の小会議室で、リディアは尋ねた。 目の前には若い令嬢が七人座っている。 年齢は十五歳から二十歳ほど。 全員、緊張している。 そして、その先頭にいるのがエレナ・ローデンだった。 以前、慈善連絡昼餐会でリディアに声をかけた令嬢。 薬草学を学んでおり、婚約後も続けたいと話していた少女だ。「申し訳ありません」 エレナが頭を下げた。「本当は、私一人で伺うつもりだったのです」「では、なぜ七人に?」「話したら、増えました」「増えた」「はい」 リディアは七人を見る。 一人が気まずそうに目を逸らした。 一人は膝の上で拳を握っている。 一人は何か分厚い本を抱えている。 そして一番端の小柄な令嬢は、明らかに泣きそうだった。 ロザリーが淡々と資料を確認する。「相談希望内容を整理しました」「いつの間に?」「先ほど、受付で聴取しました」「早いですね」「必要ですので」 完全にギルベルト
第78話 雨音基金、最初の苦情 雨音基金に最初の苦情が届いたのは、正式始動から十二日目の朝だった。 一通ではない。 十七通だった。「……多くありませんか」 リディアは、机の上に積まれた封書を見つめた。 白。 薄青。 象牙色。 高級紙。 簡素な紙。 香水の匂いがする封筒まである。 雨音基金運営準備室の机が、朝から妙に華やかだった。 内容が苦情でなければ。「正確には、本日届いたものが十七通です」 ロザリーが淡々と答えた。「本日?」「昨日までの分を加えると二十九通」「増えましたね」「はい」 セオが隣で一通を開いている。「監査官、こちらは寄付者側ですね」「読み上げてください」「では」 セオが咳払いをした。「『長年にわたり慈善活動へ尽力してきた者として申し上げます。新しい報告書には寄付者名があまりにも小さく、支援先の要求ばかりが強調されているように感じます。善意に対する敬意が失われれば、今後、寄付を続ける者が減ることを危惧いたします』」 リディアは黙った。「次です」「まだあるのですか」「十七通あります」「そうでした」「『先日公開された支援先からの意見欄に、毛布が足りなかった、薬草茶の到着が遅かった等の記述がございます。寄付を受けた側としては、まず感謝を述べるのが礼儀ではないでしょうか』」 リディアの眉間に皺が寄る。 セオが読み上げる。
第77話 セレスティナ、祝う資格を悩む セレスティナ・ヴェルクレアは、姉の誕生日を知っていた。 冬至祭の五日前。 昔から知っていた。 だからこそ、今さら気づいてしまったことがある。「……私、お姉様の誕生日をちゃんと祝ったこと、あったかしら」 聖ルカ孤児院の台所。 焼き上がったばかりの菓子を前にして、セレスティナは呟いた。 返事はない。 菓子も答えない。 少し焦げた端の部分が、やたらと責めるようにこちらを見ている気がした。「何、その顔」 後ろからミラが言った。「どの顔?」「焼き菓子に怒られてる顔」「焼き菓子は怒らないわよ」「じゃあ、なんで謝ってるの?」 セレスティナは黙った。 確かに、さっきから心の中で何度も謝っていた。 焦がしてごめんなさい。 粉っぽくてごめんなさい。 前よりは柔らかいけど、まだお店のものみたいじゃなくてごめんなさい。 そして。 お姉様、ごめんなさい。 何もかも、最後はそこへ戻ってしまう。「お姉様の誕生日が近いの」「知ってる」「知ってるの?」「リディアが二十一になった日の次は、二十二になるんでしょ」「そうだけど」「じゃあ、おめでとうって言えばいい」 あまりに簡単だった。 セレスティナは思わずミラを見る。「そんな簡単じゃないのよ」「なんで」「なんでって……」







